沖縄・琉球風水師
「和来龍(わらいりゅう)」
週刊かふう 第44回 紫禁城に倣う
2024 / 02 / 15

「週刊かふう」は琉球新報社の住宅情報誌です。
 2020年4月から月一回、第4金曜日の号に「風水看がみる景色」としてエッセイを連載しています。新たな琉球風水レッスンの中で、これまでの掲載内容を順次紹介していきますので、おもしろ楽しく読んでみて下さい。

◆第44回 紫禁城に倣う◆
 1427年、首里城の外苑にあたる安国山と龍潭は、尚巴志の命を受けた華人の懐機によって、松や柏、カエデ、カシなどの樹木や花卉、果樹、薬木などが植えられ、池には魚が群れ泳ぐ庭園として整備された。

 その10年前の1417年、この庭園工事のために懐機は北京に行って造園技術を学んだ。この時北京では、明国皇帝・永楽帝の命により、南京から北京に遷都するための紫禁城建築工事が進められていた。

紫禁城
紫禁城は「君子南面す」の風水思想から建物は南を向き、北側・背後に景山が配置されている(写真:Google Earth)

 紫禁城は、クビライ・カーンによって1288年に造られた元王朝の「大都」があった場所に建設された。「大都」の建設時には、陰陽術(風水術のこと)に秀でた名臣・劉秉忠※1が風水を見立てたことが知られている。

 紫禁城でも風水思想にしたがって宮城の配置が決定され、元王朝の御苑があった場所に堀を掘り、その残土を北側に積み上げて五つの峰を持つ人工の山「景山」を築造した。懐機が訪れた3年後の1420年に紫禁城は竣工している。

 北京遷都にあたって、永楽帝は明朝の王都であった南京城を手本にした。南京城は、明の初代皇帝・朱元璋が風水術を熟知する軍師の劉基※2に風水を見立てさせて建設されており、この地の「鍾山」が紫禁城「景山」の風水モデルになった。
 元や明の王都の建設には、儒教・仏教・道教・風水術(都市計画)・土木建築術の知識を併せ持った知識人が皇帝の側近として大きな役割を果たした。

紫禁城風水
『紫禁城風水』は故宮博物院の王子林氏による紫禁城の風水解説本。紫禁城の龍脈、中心軸、山河の融合などの風水原理を明らかにしている

 ところで、朱元璋は、龍虎山の天師に全国の道教を管理させ、自ら国家鎮護・五穀豊穣の儀礼を制定して全国で実行させた。その後の皇帝も道教を重視した。
 当時の福建は特に風水が盛んな地域で、久米村に移住した華人たちは道教と風水を琉球にもたらした。
 懐機の出身地は不明だが、『歴代法案』には、懐機が東南アジアとの中継貿易を主導していたことや道教の「おふだ」を龍虎山の天師に申請した記録がある。道教に通じていた懐機は、明国皇帝の信頼も厚く、皇帝の使者としての役割を担っていたようだ。

 懐機は、琉球国が三山に分かれていた時期に、尚巴志の国相として中山国の首里城を整備し、1429年の三山統一を支えた。尚巴志は懐機の補佐を得ながら琉球王国の基盤を固めていった。
 尚金福王代の1451年には、懐機は那覇と首里を結ぶ海中道路「長虹堤」を築いている。

長虹秋霽
長虹堤を描いた琉球八景「長虹秋霽」(出典:『琉球国志略』国立公文書館デジタルアーカイブ)

 この時、風水術が用いられたかどうかは明確ではない。ただし、懐機が北京滞在中に当時の風水術に基づいた造園法や土木建築術を学んだ可能性は否定できないだろう。

※1 劉秉忠(りゅうへいちゅう)
禅僧でありながら儒教や道教、陰陽・天文など万般の学識を備えた漢人。クビライ・カーンの名臣となった。著書『平砂玉尺経』は蔡温にも影響を与えた風水書。

※2 劉基(りゅうき)・別名:劉伯温
朱元璋に仕え、明の建国と安定に尽くした博識の名臣。特に風水師として有名で数多くの民間伝説がある。






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