「週刊かふう」は琉球新報社の住宅情報誌です。
2020年4月から月一回、第4金曜日の号に「風水看がみる景色」としてエッセイを連載しています。新たな琉球風水レッスンの中で、これまでの掲載内容を順次紹介していきますので、おもしろ楽しく読んでみて下さい。
◆第42回 王国一の泉◆
中山第一
これは首里城にある石碑の一つに刻まれた文字だ。いったい何が中山第一なのだろうか?
この題字を書いた徐葆光は、1719年に尚敬王の冊封副使として来琉した。彼は八カ月の長期にわたって天使館
※1に滞在し、程順則や蔡温などとも詩を通じて親交を深めた。
中山王世子尚敬を冊封するために来琉した冊封副使徐葆光が書した「中山第一」の碑文
滞在時の様子を書いた『中山傳信録』には次のようにある。
天使館には、都通事一人と秀才※2二十人が毎日輪番で当直していて指図のあるのを待っている。国王は日々、王宮の前の瑞泉を客に提供する。毎日早朝、緑の木桶に二石(約207リットル)余をくみ入れ、鎖で厳封して、十里(清の単位で約5.8キロメートル)を走って、館内へ届ける。秀才九人が当番で水を搬入する任に当たる。(筆者意訳)
瑞泉は、龍樋から出る湧水のことで、清らかに澄んで冷たく甘みがあった。龍樋は、龍の口から水が湧き出していることからそう名付けられた。
龍樋にある石彫刻の龍頭は1523年に中国からもたらされたもので、沖縄戦で一部が破壊されたが、その後補修して設置された。
首里城に設置されている彫刻物のなかで唯一当時のものになる「龍樋」の龍頭
琉球王府時代、龍樋の水は城の生活飲料水として使用された。ところが、那覇の天使館周辺には良質な泉が無かった。そのため、冊封使が訪れた際には龍樋の水をくんで届けた。
冊封使節団は、数百人規模で、4カ月から8カ月間滞在する。その間の飲食の提供や芸能などを披露しておもてなしすることは琉球王府の重要な勤めだった。
手間をかけても良質の水を提供し続けた王府の心遣いに冊封使たちは感動したに違いない。徐葆光は、瑞泉は「中山第一」の泉であると称賛して題字を書いた。後代の冊封使もその水の清らかさを讃えたため、龍樋のまわりには彼らの題字を刻した七つの石碑が建てられた。
左から霊脈流芬(趙新書)、飛泉漱玉(高人鑑書)、源遠流長(林鴻年書)、龍樋のまわりには、冊封使達がその水の清らかさを褒め讃えた石碑(計7基)が建てられている
高い山が無く、飲料水の確保に苦労した沖縄本島にあって、一年中豊かで美味しい水を供給し続けている瑞泉は、琉球王国の貴重な宝であったに違いない。
徐葆光が来琉する前の1713年、蔡温は首里城や玉陵の風水を調査し、「城中には龍泉があり、水は清浄で美味である」と讃えている。彼はまた、「首里の都は万世決して改建してはならない」と書き残したが、瑞泉の存在も理由の一つだったかもしれない。
2019年に首里城が焼失し、多くの人が喪失感を味わった。しかし、龍樋は今も変わることなく水を出し続けている。それを眺めていると沖縄学の父・伊波普猷の次の琉歌が思い出された。
深く掘れ
己の胸中の泉
餘所たよて
水や汲まぬごとに
※1 冊封使一行の宿泊所で現在の那覇市西消防署付近にあった
※2 久米村の位階の一つ。14~16歳で元服した久米村の若者
参考文献:『中山傳信録』、『首里城が楽しく学べる首里城物語』一般財団法人沖縄美ら島財団