「週刊かふう」は琉球新報社の住宅情報誌です。
2020年4月から月一回、第4金曜日の号に「風水看がみる景色」としてエッセイを連載しています。新たな琉球風水レッスンの中で、これまでの掲載内容を順次紹介していきますので、おもしろ楽しく読んでみて下さい。
◆第43回 風水から考察する龍潭の必然性◆
「龍潭は風水と関係があるの?」という質問をいただいた。
答えは簡単ではない。首里城創建時の記録がほとんど無いため、当時の首里城が風水にしたがって建てられたかどうかさえはっきりしていない。
首里城正殿と御庭(うなー)の形式は風水思想が現れたものだが、それらは風水とは関係なく浦添城から発展したと考えられている。琉球の大型グスクが風水によって造られたという証拠がないからだ。
『安国山樹華木之記
※1』に龍潭に関する次のような記録がある。
沖縄県公文書館(南風原町新川)に飾られる「安国山樹華木之記碑」のレプリカ
永楽丁酉(1417)年、国相懐機は王(尚巴志)の命令を受けて北京に赴き、中国の礼楽文物が盛んな様子や名山大山の厳かな様を見て帰った。
中国にならって王城外の北側に池を掘り、その土を高く盛って安国山を築き、南側には物見台を作って、役人や民の遊息の場所とした。
山には種々の樹木や花果、薬木が植えられ、池には魚が群れ泳いだ。(筆者意訳)
ここには風水用語が出てこないため、「龍潭は風水によって作られていない」という見解がある。
ただし、工事を主導した懐機
※2は中国の知識人で道教にも詳しかった。当時の知識人は、道教や仏教の寺院建築などに風水を用いても、そのことを表に出すことは無かった。首里城が北京の紫禁城にならって整備された際も同様だったのではないだろうか。
風水では立地を考える際に山と水を最も重視する。山は龍脈という大地のエネルギーが現れたもので肉体の健康や生命力に影響する。水は龍脈の生気を留め蓄えるもので活力や財運に影響する。
もし、風水師が首里城の立地を検討したとすれば、弁ヶ嶽を源とする龍脈が首里城の丘陵を形成していることをまず見抜くだろう。
一方、生気を蓄える水域が近くにないことがわかり、池を掘ることを提案するに違いない。首里城には湧き水が豊富にあり、池を掘ればそれらの水を導くことができるからだ。
池を掘った際に出る土は築山に用い、景観のためと土砂の流出や生気の散逸を防ぐために樹木を植えるだろう。
懐機が築いた池は後に龍潭と呼ばれ、冊封使滞在中の重陽節には龍舟の宴が催された。
『中山傳信録』巻第二・重陽宴圖(出典:国立国会図書館ライブラリーhttpsdl.ndl.go.jppid1115553161)
昭和17年には、龍潭の浚渫が行われ、養魚地とする計画もあった。
1942(昭和17)年に行われた龍潭池の浚渫の様子。各町奉仕隊の勤労奉仕で浚渫が行われた(写真提供:那覇市歴史博物館)
沖縄戦で池周辺の姿は変わり、修復工事を経て現在の景観となった。
近年の龍潭周辺は、閑散として、懐機が期待したほど活用されてはいないようだ。
山(石)と水(池)の調和を重視する中国や日本の造園法は風水の影響を受けていることから、「龍潭と安国山も風水と関係がある」と私は考えている。
※1:1427年に首里城近くの安国山に建立された沖縄で現存する最古の碑文。国の重要文化財。
※2:琉球国第一尚氏王統の国相・尚首相から第5代国王尚金福までの王に仕えたとされる。