沖縄・琉球風水師
「和来龍(わらいりゅう)」
週刊かふう 第12回変わる墓の風景
2021 / 05 / 07

「週刊かふう」は琉球新報社の住宅情報誌です。
 2020年4月から月一回、第4金曜日の号に「風水看がみる景色」としてエッセイを連載しています。新たな琉球風水レッスンの中で、これまでの掲載内容を順次紹介していきますので、おもしろ楽しく読んでみて下さい。

◆第12回 変わる墓の風景◆
 清明祭の時期になると、沖縄本島では門中によるお墓参りで例年賑わう。今年は新型コロナのため、規模の縮小や少人数でのお墓参りが呼びかけられ、人出が少なくなっている。

長浜美佐子さんの版画「清明祭」
長浜美佐子さんの版画「清明祭」

 琉球王朝時代に中国からもたらされた儒教は親孝行や祖先祭祀を大切にした。
 17世紀には亀甲墓や破風墓が建造されるようになり、士族の家系図が作られると父系の血縁で結びついた門中が祖先祭祀をするようになった。実際に清明祭が始まったのは1768年(「球陽」より)とされ、年中行事として首里の士族を中心に普及し、やがて農村部にも広がって今日に至る。

 しかし、古代の沖縄では風葬が主流だった。川や海を隔てた対岸や無人島の自然洞穴を利用して遺骸を置いたと考えられている。人が死ぬと魂は海のかなたの常世の国に行き、遺体は魂の抜け殻あるいは穢れたものと思われていたようだ。日常生活では風葬の場所には近づかなかった。

 一方、古代中国の儒教では親の遺骸が白骨となって風に吹きさらされる姿を見るのを忍びないと考えた。そのため、親を手厚く葬ることが「孝」であるとして、葬儀や服喪の儀礼を説いた。親の遺骸を環境の良い土地に埋葬することも「孝」と考えられた。しかし、親を風水的吉地に葬れば子孫が出世、繁栄するというご利益的なところは、風水師らによって誇張して広められたものだ。

 風水が琉球に伝わると福州の亀殻墓を真似て亀甲墓が造られた。亀殻墓はもともと亀にあやかったもので、家族に長寿をもたらし縁起が良いとされていた。それが琉球では母の腹を形象する亀甲墓になった。人は母の腹から生まれ、死んだら大地の母の腹に帰って安らかに眠ると意味づけられた。破風墓や家型墓はまさに死者の家をイメージしたものだ。

久米島町小港松原墓
蔡温が風水を看たとされる字西銘の小港松原墓は、久米島町の有形文化財建造物にも指定される

 現在、沖縄のお墓事情は複雑だ。墓地埋葬法の適用により、個人墓地は原則禁止され、地方公共団体や宗教法人、公益法人が管理運営する墓地に墓を造ることになっている。しかし、都市部の人口増加による墓地不足は解消していない。少子化もあって、合祀型の永代供養墓や納骨堂、樹木葬、散骨などを選ぶ人も増えつつある。 
 門中墓は管理する人の負担が大きく、継承問題が深刻化している。門中意識も希薄になって、家族墓や兄弟墓を別に造る傾向もみられるため、清明祭の風景も変わっていくことだろう。

墓から見る景色
墓から見る景色。青空と東シナ海、日々変化する宜野湾市の街並み

 今では風水看に墓地を選定してもらう風習は無くなったが、私は風水師として昔の亀甲墓に心惹かれる。その曲線の優しさや美しさとともに大地の生命力を感じるからだ。

※亀殻墓については「椅子墳と亀殻墓」周星(何彬/小熊誠共訳)・『沖縄国際大学南島文化第18号』/沖縄国際大学南島文化研究所1996年の論文がある。
 そのP55に「沖縄には亀甲墓を母体回帰のシンボルだとする解釈がある。墓は女性の仰向け姿勢であり、母体を象徴し、死者をその中に葬ることは、すなわち人間が死ぬことによって元の母体に帰ると考えられ、そこには再生への期待が含まれている。〈中略〉亀殻墓については、福建での調査において母体回帰に類した解釈を聞いたことがない。しかし、一部の学者による中国の風水理論研究の結論によれば、陰宅風水の原理は女陰あるいは母体をもとにしたものであり、そうであれば、沖縄の解釈は根拠がないわけではない。〈以下略〉」とある。





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