「週刊かふう」は琉球新報社の住宅情報誌です。
2020年4月から月一回、第4金曜日の号に「風水看がみる景色」としてエッセイを連載しています。新たな琉球風水レッスンの中で、これまでの掲載内容を順次紹介していきますので、おもしろ楽しく読んでみて下さい。
◆第55回 沖縄らしい「風水の象徴」◆
以前に
「沖縄の風水は本土と異なると聞きました。沖縄での風水の歴史と特徴を教えてください」という質問をもらった。
本土では運勢占いや住宅の間取りやインテリアを扱ったものが風水として知られているようだ。特に東京などの都会ではマンションで暮らす人が多く、建物の向きや間取りが変更できないため、近年はインテリアによる風水開運法がもてはやされている。
また、本土の家づくりでは、伝統的に土地や建物の向き、間取りなどを判断するものは「家相」と呼ばれ、「風水」とは言わなかった。家相でも南向きの住宅を吉とするが、北西を主人の方位として床の間を置き、北東を「鬼門」、南西を「裏鬼門」と言って開口部や水まわり、カマドなどを避けるという特徴がある。
復帰前の沖縄では、風水のことを「フンシ」、風水師のことを「フンシミ(風水看、風水見)」と呼んでいた。琉球王朝時代の風水師が福州で風水を学んだため、閩南語(びんなんご)の「フォンシュイ」の発音が訛(なま)ったようだ。
沖縄に風水文化がもたらされたのは、14世紀後半、福州の人たちが那覇に住み着いて道教の習俗を持ち込んだ頃からのようだ。居住地(久米村)の環境を風水にしたがって整備し、久米大通りを龍の身体に見立て、仲島の大石
※を龍珠とみなした。
沖縄最初の風水師は、1667年に福州で風水を学んで帰った久米村の周国俊とされている。彼は孔子廟の立地や金正春の墓を風水判断した。
1678年、蔡応瑞は王府の命令で福州に渡って風水を学んだ。彼は火災の多かった富盛村の人々から依頼されて風水を調査した。火の運を持つ八重瀬嶽が不吉であるとして、獅子の形をした石像を彫らせて八重瀬嶽に向けて据えさせた。これから後、石獅子には火伏や邪気を払う力があることが知られるようになり、あちこちの村で災難よけの石獅子が彫られて据えられるようになった。
御茶屋御殿の石造獅子。1677年に建造された王府別邸御茶屋御殿にあった石獅子で八重瀬嶽に向けられていた。沖縄戦で破壊され、戦後に復元されて雨乞御嶽(首里崎山公園内)の隣りに移設されている
それらの置き場所や向きは、村に災厄が入らないように風水にしたがって決められた。
真玉橋イリヌシーサー。魔よけとして集落の西方位を守っている
明治以降になると、石獅子は守り神のシーサーとなって屋根の上や門の両側に据えられるようになった。今では、お守りやお土産として様々なシーサーが作られ、県民や観光客に親しまれている。
県庁前交番の隣にある「愛のシーサー公園」入口のシーサー
沖縄にもたらされた風水は、地勢や地形から気の流れを読み解き、邪気を避けて良い気を取り込むための技法だった。後に蔡温によって沖縄の自然環境に合うように工夫されて沖縄独特の風水として定着した。シーサーや石敢當は沖縄の風水の象徴と言えるだろう。
※当初は海中にあったが、後に海が埋め立てられて現在は那覇バスターミナル構内に存在している。